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中内福成さんお別れ会のご報告

2020-02-10

本年1月1日にご逝去された 当法人会長で初代理事長の中内 福成さん(御年80歳)のお別れの会が

1月26日、堺市堺区のサンスクエアホールで開催、約400名の方々が参列されました。

 

お別れの会は、コスモスコーラスの合唱で始まり、参列者全員の黙とう、追悼映像と続き、

堺市健康福祉局長をはじめ5名の御来賓の方々からの弔辞、ご家族からの謝辞、

参列者全員の献花で無事終えることができました。

 

ここに改めて、中内福成さんの略歴をご紹介すると共に謹んで故人の御冥福をお祈りします。 

 

 

 

【略歴】

 1939年 徳島県生まれ

 1957年 徳島県立徳島工業高等学校卒業

 1957年 大阪の製薬会社に就職(全商業の労働組合役員として活躍)

 1974年 堺心身障害児(者)を守る会(こだまぼっこの会)会長

 1976年 社会福祉法人いづみ会(現いづみ保育園)設立当初理事

 1986年 社会福祉法人せんぼく福祉会(現せんぼく障害者作業所)設立当

  初理事

 1995年 6法人合併(新設法人)設立代表者

 1996年 社会福祉法人コスモス初代理事長

 2010年 社会福祉法人コスモス会長

 

  <生前の主な活躍の場>

 障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会(障全協)会長

 堺市知的障害者相談員

 堺市障害者施策推進協議会委員

 堺障害フォーラム代表

 こだまぼっこの会会長

 

 お別れの会にあたりましては、多くの皆様にわざわざお越しいただいたうえ、

故中内さんへのお心のこもったメッセージを賜りまして誠にありがとうございました。

厚くお礼を申し上げます。

 突然のことに、取り紛れ行き届かぬことばかりでございましたことをお詫び申し上げます。

おひとりお一人にお礼を申し上げるべきところではありますがこの場を借りてお礼申し上げます。

 

                        社会福祉法人コスモス

                         理事長 墨 光子

 

 

※「中内福成さんお別れの会実行委員会」が発行しましたMemories を掲載いたします。

内容はこちらMemoriesをご覧ください。

多くの方々にご参列いただきました

 

 

 

 

 

 

≪寄せられましたメッセージの一部をご紹介します≫

● 堺市健康福祉局長 隅野 巧

中内さんとの出会いは、今から20年前、私が社会福祉法人・施設の監査担当になった時でした。

当時、中内さんはコスモスの初代理事長でしたが、

なにより利用者のことを第一に考えた施設運営をされていました。

その後、私が障害福祉課長となってからは、

障害福祉のあり方についてのお考えを聞かせていただく機会が多くあり、

その際には理路整然と障害者の生活や権利について熱く語られていたことが、今も記憶に残っています。

 

また、アイディア豊富でかつ即決行動の方でしたので、

障害者スポーツの新しい競技を提案いただいたり、市の各種委員に就任いただいたりと、

助けられ教えられる場面が沢山ありました。

 

堺市の障害福祉の草分けとして、本市福祉行政にとっても大きな役割を果たされた中内さん、

本当にありがとうございました。

どうぞ安らかにお眠りください。

 

 

● 堺市社会福祉施設協議会  会長 永野 治男

中内福成様のご逝去の報を受け、ここに謹んでお悔やみを申しげます。

中内様には、ご生前格別のご指導ご厚誼をいただき、厚く御礼を申し上げます。

墨理事長をはじめ、皆様のご落胆はいかばかりと拝察いたしますが、

このうえは皆様の力を合わせ、志を受け継いで励まれますことを心よりお祈り申し上げます。

 

貴法人の今日の繁栄を築かれたご功績をしのび、また当協議会に賜りました

ひとかたならぬご厚情に深く感謝申し上げまして、ここに謹んで哀悼の意を表します。

 

              

● 堺障害者団体連合会 理事長 小田 多佳子

堺障害者団体連合会の始まりは昭和48年で、その歴史の中で脈々と受け継がれている活動に

「国との懇談」があります。

皆で東京へ行き、直接国の各省庁の担当者と会い現状や課題を伝えるというものです。

内容は多岐に渡り、様々な障害種別、立場からの要望が出ますが、

その全体を微力な私に代わりまとめてくれていたのが、中内さんでした。

私の知らないことや難しい問題をわかりやすく解説してくださり、とてもありがたかったです。

何より二泊三日かけていく東京、その三日間、中内さんを独占して話ができるのも私の楽しみでした。

また、ここ最近は堺市の会議や行事等でご一緒する機会も増え、

いつも自分の側に中内さんがいてくれる安心感がありました。

 

今、お別れの時。

どれほど支えていただいていたのかを実感しています。

ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。

力不足とは思いますが、中内さんの志を次へつなぐことができるよう、精一杯がんばってみます。

どうぞ、私たちを、そして子どもたちを見守っていてください。

本当にありがとうございました。

 

 

● 吉川 喜章

あまりにも唐突なお別れに唖然としています。

昨年十一月中旬、ある団体の研修会場でいつもの中内さんお会いして、

それからわずかひと月半後のことです。

とても優しく残念な思いでいっぱいです。

堺における障害者運動のリーダーとして長年ご奮闘いただきました。

全国の組織の代表をはじめいくつもの団体や組織の活動をけん引されてきました。

お元気そうに見えてはいましたがお疲れが極限に達していたのでしょうか。

 

中内さんには大変お世話になりました。

また、たくさんのことをお教えもいただきました。

感謝のひと言です。本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。

 

音たてて椿一輪土に帰す

この中に今も居るよな白梅忌  

                                

 

 

● 堺あけぼの福祉会 山本 好隆

1978年の秋の土曜日。

堺教組障害児教育部主催で「担任と親たちの勉強会」を宿院近くの会場で開催。

閉会近くなった時、母と参加していたS君が会場に居ないことがわかり、

急きょ、動ける担任たちが周辺のバス停や駅、公園などを回ったが居ない。

閉会後は増えた教職員や親たちが共同で探し回った。

範囲も会場周辺だけでなく、阪堺線の浜寺やえびす町、南海線の堺東駅、堺駅、なんば駅と

その周辺に似顔絵も持参して聞き回った。

教職員・組合役員と中内さんたちの呼びかけに応じた多くの親たちの参加で探す。

日が替わっても見つからず、

私たちと親の代表である中内さんも堺教組書記局で一睡もせず待ちました。

 

翌朝10時過ぎに「津市児童相談所に無事に居る」と連絡が入り安堵。

この時に生まれた中内さんへの私の信頼は、そ

の後の私の40余年間の教育め福祉時代の取り組み中も揺るぎませんでした。

昨年11月6日、びわこ学園のグループホーム見学後の夜、

宿舎で聞いた「暮らしの場づくりの中内論」が肉声の最後になりました。ご冥福をお祈りします。

                      

 

 

          

● 堺肢体不自由児(者)父母の会 会長 上野 紀美

中内福成さま、ご冥福をお祈りします。ゆっくりお休みください。

永い永い間 私達障害者の親達を導いて下さいまして本当にありがとうございました。

子供達の小さな頃は、就学猶予免除返上運動から始まり、

卒業後は作業所作り・施設作り・堺の法人作りにも、

いつも先頭に皆といっしょにガンバリ続けてくれました。

 

福祉プラザ作りも、約10年間貴方について行けば大丈夫だと、今は立派な施設となり、

ベルデ堺に入所した人達も皆、感謝の毎日を過ごしています。

 

障団連主催の、国との意見交換会 年に一回、前夜には貴方を囲んで、ミーティング

皆で大きな力を頂き、成果を上げていました。

 

親亡き後の暮らしの場は、今まだよい話は頂いてませんが、

今まで通り貴方の教えの通りガンバって行きます。

 

どうも、長い間 有り難うございました

 

 

 

● 高橋 充子

こだまぼっこの会発足当時(1970年代)

障害を持ったこども達や保護者の皆さんは1969年「えのきはいむ」開園を機に、

悩んでいるのは自分ひとりではないと知り「毎日通園や学校教育の保障を」との要求が寄せられる中、

中内さんは「こだまぼっこの会」を立ち上げられました。

会則を整え、ガリ版の会報を通して、一気に仲間作りは前進します。

 

作業所作り(1980年以降)

障害児教育は徐々に拡充していきますが、卒業後の進路は未開拓でした。

共同作業所や授産所が開設されるに従い、行政の支援も軌道に乗り出します。

中内さんは障害種別を問わず、交流や共同の場作りにも努力を惜しまれませんでした。

 

生活の場作り(2000年台)

入所施設やグループホーム等、生活の場の確保は保護者の高齢化に伴い、喫緊の課題です。

中内さんは大阪、堺にとどまらず、全国の障害者や家族の先頭に立たれて、

障害者の生活基盤の充実のために歩み続けられてこられ突然旅立たれました。

哀切の念一汐ですが、でもきっと中内さんは後世の人達を信頼され志を託されたに違いありません。

 

中内さん、どうぞ安らかにお眠りください。

心からご冥福をお祈り申しあげます。

                                 

 

 

● 相原  由一

中内さんとの出会いは、48年前1972年4月、

私が府立百舌鳥学園で勤務するようになってからのことです。

同じ年の4月、中内さんの息子さんが5歳で入園してこられました。

当時の百舌鳥学園は、

園児の2割以上が就学猶予などで6歳を超えている、そのような状況でした。

私は学生時代から障害者運動に関わっていましたので、

いつの頃か中内さんや他の園の保護者・職員のみなさんとのつながりができ、

1973年2月の「こだまぼっこの会」結成にも関わらせていただきました。
その頃、一度中内さんのお宅に伺ったことがありますが、

書棚に「前衛」がたくさん並んでいたことが強く印象に残っています。
 

奥さんは、中内さんのことを評し

「豆タンクみたいにエネルギー一杯で突き進んでいく人」

-そのようなことを言われていました。

本当にその通りで、その後、

全障研堺地域サークル結成(1976)、堺障連協結成(1982)など大変お世話になってきました。

 

私事になりますが、1989年に私たち夫婦が結婚した時には、

結婚祝賀会の実行委員長も引き受けていただきました。

その時の若々しい中内さんのお姿が目に焼きついています。

本当にお世話になり、ありがとうございました。どうぞゆっくりとお休みください。

 

 

 

● こだまぼっこの会 欅田 克彦

47年の年月が流れましたね。

「こだまぼっこの会」立ち上げ前に会則案を妻に見せられ、

意見を求められたのがきっかけでした。

当時「えのきハイム」の前身が三国丘病院の中庭に有った時のことです。

 

それから時を経て、私の娘も今年50才になります。

情熱家の貴兄はその後、障害者運動に身を投じ、

色々とその時々に、その一端をお手伝いさせられることになりました。

 

小学校の養護学級の取り組みが盛んな頃の「父母と教職員の懇談会」の

堺市内の6法人化に向けての「作業所」設立運動の

泉北地域に続く「堺西部地区作業所設立準備会」のバザー、廃品回収、

街頭カンパ等の街宣活動、資金集め……。

 

これらの泥臭い日常活動の連続が、今の障害者運動の成果につながることを、

貴兄は十分に分かっておりました。

それが社会福祉法人「コスモス」へと結実するのです。

更に、「堺障害者(児)の生活の場を考える会」等の障害者の生涯保障……。

 

今から何十年前になりますか、貴兄との縁で

「障全協」初代会長、矢島せい子さん(女優、沢村貞子さんの姉君)達と

東京の路上をデモ行進したことが、幻のように頭をよぎります。

「中内さん、安らかにお休み下さい。」

 

 

 

● かもい よしお

  故 中内福成さんに捧げる鎮魂歌

 

障害をもつ親たちのまとめ役運動拡げ一生捧げる

大阪の運動担い全国へ社会保障確立の先頭に立つ

温かい日と声皆に降り注ぎ励まし続けた大きなあしあと

尊い命尽き果てるまで闘いし君の願いは失せることなく

格差拡げ戦争する国めざす政治変える力合わせて後継ぐ我ら

 

                     2020年1月26日

               中内福成さんのお別れの会にて   

 

 

 

● 瀬藤 みや乃

なかまたちの人気者だった中内さん さようなら

 

年明け、中内さんの訃報をきき無念です。

いつも笑顔でみんなが元気をもらっていましたのに。

が、昨年11月会議で“生きていかれへんがな…”(障害者の思い)と言っていました。

 

厚労省との交渉、劣悪なる施策、疲れもひどかったのでしょう。

中内さんの運動の第一歩は、

その子も小学校へ入れるようにと集まった親の会“こだまぼっこの会”でした。

作業所の出発は、もずの車庫からでした。

その後、せんぼく、おおはま、東部…と障害者作業所が認可されるのに中内さんは尽力されていました。

 

新金岡・北野田2つの民間保育園と福祉同志、力を合わせようと合併し、

社会福祉法人コスモスを設立しました。

 

合併後も作業所増設、高齢者の“結いの里”そして緊急時に利用できる“えると”をつくりました。

 

それらの建設には、まず地域自治会との話し合い。

中内さんは、その先頭にいました。

コスモスの最も大きな課題 それは親なきあと、なかまをだれが守るかでした。

グループホームを建てはじめ現在23ヶ所のホームがあります。

 

中内さんは全国の、堺の、障害者運動のリーダーでしたが、コスモスの歴史そのものでした。

ほんとうにありがとうございました。

                                           

 

 

● 大阪視覚障害者の生活を守る会 千田 勝夫

中内福成様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

今から約40年前のことでした。

「堺市で障連協を作りたいので視力障害者団体として参加してほしいんや!」と声を掛けていただきました。

それこそ何も分からない私(当時30歳)でしたが、とにかく、

「協力していただけるなら一緒に参加しよう!」と思い、堺市に住む視覚障害者に呼びかけて

当会の堺班を結成、今は堺支部として活動しています。

 

それこそ、自治体との話し合いや議会陳情などでご指導をいただきました。

2002年からは「支援センター『えると』」で視覚障害者のピアカウンセラーとして参加させていただくなど、

あらゆる面でご指導をいただきました。

これからもまだまだご指導をいただけると思っておりました。

誠に残念でなりませんが、これまでご指導いただいたことにお礼申し上げ、

私の力の続く限り障害者の生活と権利を守る運動を続けます。

 

安らかにお眠りください。合掌!

 

 

 

● 日本てんかん協会大阪府支部  代表 谷口 博文

中内福成様のご冥福をお祈り申し上げます。

 

中内 福成様のご逝去を知り、驚きと哀悼の念に堪えません。

心よりお悔やみ申し上げます。

お別れの会には、支部の行事により出席がかなわず誠に申し訳ござません。

 

てんかん協会大阪府支部は、2013年に、中内様にご講演をお願いした

ところ、『我が子の将来と、親の役割』と題して、2013年3月16日に、

講師を受けていただきました。ご教受に、光明が射した思いをしたことが、

昨日のように思い出されます。

 

てんかん署名へのご協力も感謝しています。

 

障害者フォーラムの集会等で、

運営に携わっておられるお姿を拝見していました。

ご苦労が多かったろう、先駆に思いを致します。

中内様の尊いご意志を受け継ぎ、障害者が暮らしやすい社会になるよう、

私たちも後に続きます。

どうぞ、いつまでも見守ってください。

 

ご生前のご厚情に深く感謝すると共に、心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

● 藤井 建一

中内さんに最初にお会いした時の印象は気難しそうなおじさんという感じだったのですが、

話し出してみると、笑顔・手振りを交えてとても熱心にお話しされるので、

そのギャップにとても驚いた記憶があります。 

 

私は、年に1−2回お会いする程度で、

実際にお仕事を一緒にさせていただいたことはないのですが、

お話をさせていただいただけでも、

本当に真剣に情熱をもって障害児者の生き方を模索されている方なのだと確信しました。

それだけ、強く人を惹きつける魅力を持った方でしたので、

私以上に今後の事について不安を感じておられる方もたくさんいらっしゃると思います。 

コスモス後援会の責任者の一人として、

中内さんの抱いておられた情熱を少しでも実現できるように頑張りたいと思っています。 

 

この表明をもって、中内さんのご冥福をお祈りさせていただきます。

 

 

● 合唱組曲「いのち光るとき」「春いちばんの風」「ねがい」の作詩者

佐伯 洋

 

心より哀悼の意を捧げます。

中内さんは、人と人をつなぎ、細く険しい道を一歩一歩と拓き、福祉を根付かせてきて下さいました。

コスモス研究所を立ち上げ、責任者として全国的な視野を持って研究と運動を広げ、

進めてこられたことにも深く敬意を捧げます。

 

中内さんのお人柄と熱い志を受け継いでいくことが中内さんへのご恩返しになると思います。

旅立たれたことを痛恨の思いで受け止めております。

中内さん、お疲れ様でした。どうか、安らかにお休みください。